フォルクスワーゲン・タイプ1

提供: Yourpedia

(差分) ←前の版 | 最新版 (差分) | 次の版→ (差分)
移動: 案内検索
フォルクスワーゲン・ビートル

フォルクスワーゲン・タイプ 1(Volkswagen Type 1)は、ドイツフォルクスワーゲン社によって製造された小型自動車フォルクスワーゲン・ビートルの通称でも知られる。

1938年の生産開始以来、2003年まで生産が続き、四輪自動車としては世界最多となる「生産台数2,152万9,464台」の記録を打ち立てた伝説的大衆車である。

概要

フォルクスワーゲン・ビートル

卓越した自動車設計者フェルディナント・ポルシェによって1920年代以来、長年にわたり希求されていた高性能小型大衆車のプランが、1933年にドイツ首相だったアドルフ・ヒトラーの大衆政策と結びつくことで実現した。1930年代におけるもっとも進歩した小型乗用車の一つで、その進歩性が、長年にわたって世界的な自動車市場の第一線で競争力を維持できた大きな理由とも言える。

1938年に量産型の原型が完成し、生産体制の整備が始められたが、ヒトラーの野心による第二次世界大戦勃発で民生用量産は実現せず頓挫、若干が主として軍需用に生産された後、大戦末期までに空襲によって工場その他は壊滅した。ヒトラーに翻弄された生い立ちの自動車と言える。

戦後フォルクスワーゲン工場を管理する立場に立ったイギリス軍将校アイヴァン・ハーストの尽力により工場を復旧、1945年から本格生産開始に至る。さらに、元オペル社幹部であったハインリッヒ・ノルトホフが最高経営者に就任し、彼の経営手腕の下で、ドイツ国内はもとより、アメリカ合衆国をはじめとする国外への輸出でも1950年代から1970年代にかけて大きな成功を収めた。おびただしい外貨獲得によって、戦後の西ドイツ経済の復興に大きく貢献した。

1938年から2003年まで、累計2,152万9,464台が生産された。これは、4輪乗用車における世界最多量産記録であり、すべての輸送用機器においてもスーパーカブ(6,000万台を越え現在も生産中)に次ぐ台数である。

ドイツ本国では1978年に生産終了しており、この時点で主力生産品の第一線からは退き、排ガス規制の強化が進んだ欧州・米国などの一部地域では車両登録不可[1]などの不遇にも見舞われたが、現在に至るまで世界的な人気は高い。そのため、フォルクスワーゲン社はこの車のデザインをモチーフとしたスタイルを持つモデル「ニュービートル」を1998年から生産している。

車名

多くのバリエーションがあり、その多様性から一語で指し示す用語として、英語の「Type 1」という型式名や「ビートル」などの愛称が用いられる。時代ごとの正式車名は「フォルクスワーゲン1200」、「フォルクスワーゲン1300」、「フォルクスワーゲン1303/S」、「フォルクスワーゲン1303 LS」など、何の変哲もない呼称であった。

「Type 1」、ドイツ語では「Typ 1(テュープ アインス)」はフォルクスワーゲン社内の生産型式番号で単に「1型」という意味であり、フォルクスワーゲン社の一号車であることを表しているが、一般にはよりわかりやすい通称で呼ばれる事が多い。

英語圏では、そのカブトムシの様な形から「ビートル(Beetle)」「バグ(Bug)」などと呼ばれ(ちなみに2006年のアメリカのアニメ映画「カーズ」のエンディングで、「バグズ・ライフ」の主人公フリックのベース車として登場するが、これも「バグ=フォルクスワーゲン・タイプ1」から来ている)、ドイツでは1960年代後半より「ケーファー(Käfer=カブトムシ)」という愛称で親しまれた。ブラジルなどでは「フスカ」(Fusca=南米産の大ゴキブリ)と呼ばれ、タイでは「タオ」(亀)の愛称で呼ばれる。日本では英語の「ビートル」の他に「カブトムシ」や、メーカーではなく本車種を指して「フォルクスワーゲン」さらには単に「ワーゲン」と呼ばれることもある。

これらはあくまでも愛称であるが、ニュービートルでフォルクスワーゲン社は「ビートル」を初めて正式車名に用いた。

歴史

ヒトラーとポルシェ

フォルクスワーゲン・タイプ1となる自動車の開発は、直接には1933年、ドイツ首相に就任したヒトラーが、ベルリン自動車ショーの席上でアウトバーン建設と国民車構想の計画を打ち出したところに始まる。当時、いまだ高価だった自動車を「国民全員が所有できるようにする」というプランは、ヒトラー率いるナチス党が国民の支持を得るのに絶好の計画であった。

ヒトラーは、後にスポーツカーメーカーとなるポルシェ社の創業者であるフェルディナント・ポルシェに国民車の設計を依頼することになった。ポルシェはダイムラー・ベンツ出身の優れた自動車技術者で、退社後の1931年からはシュトゥットガルトに独立した設計事務所を構えて自動車メーカーからの設計請負業務をおこない、ナチスの支援していた「アウトウニオン・グランプリカー」(いわゆるPヴァーゲン 1933年)の設計にも携わっていた。

ポルシェ自身、生涯に開発したい車として「高性能レーシングカー」「農業用トラクター」「優秀な小型大衆車」を挙げていた。そして強豪レーシングカー開発と並行しながら、1920年代以来、在籍していたダイムラー・ベンツ社での車内開発提案を皮切りに、独立後の1932年ツェンダップ社、1933年NSU社といった自動車メーカーとの提携など、機会を得ては「フォルクスワーゲンの原型」と言うべきリアエンジン方式の小型車開発に取り組んでいたが、その度に、企画立案時点か、ようやく試作車を開発した段階で、予算不足や不景気、提携メーカーの弱腰などによって、いずれも計画を頓挫させ続けていたのである。それだけにヒトラーの提案は「渡りに船」であった。

運転はしなかったが自動車に乗ることが好きで、メルセデス・ベンツタトラを好んだカーマニアのヒトラーは、ポルシェに国民車の条件として、以下のような厳しい条件を提示した。

  • 頑丈で長期間大きな修繕を必要とせず、維持費が低廉であること
  • 標準的な家族である大人2人と子供3人が乗車可能なこと(すなわち、成人であれば4人乗車可能な仕様である)
  • 連続巡航速度100km/h以上[2]
  • 7Lの燃料で100kmの走行が可能である(=1Lあたりの燃費が14.3km以上である)こと
  • 空冷エンジンの採用[3]
  • 流線型ボディの採用[4]

これらの条件はもとよりポルシェの目指していた国民車コンセプトに多く合致していたが、ヒトラーがポルシェに強調したのは「この条件を満たしながら、1,000マルク以下で販売できる自動車を作ること」であった。

ヒトラー自身も課題の厳しさは承知していたようだが、当時のドイツ製4人乗り小型乗用車で、大量生産による低価格化を実現した代表例のオペル「P4」ですら、定価1,450マルクに抑えるのが精一杯だった[5]ことを考えれば、販売価格1,000マルクで必要とされる性能の自動車を開発することは極めて困難なテーマであった。

ドイツの各自動車メーカーが政府統制によって結成した団体「ドイツ帝国自動車産業連盟」(RDA)が、1934年6月にポルシェ事務所と開発契約を結び、計画がスタートした。ポルシェ社は、決して潤沢とは言えない開発予算の中で、1930年代初頭から幾度となく試作されては頓挫してきた小型大衆車の開発経験を活かして、開発を進めた。

開発課程と完成、生産の頓挫

しかしフォルクスワーゲンの開発は難航した。計画からは大幅に遅れが生じ、ポルシェの責任を問う声も上がったが、ヒトラーの庇護で開発は続行された。

契約を結んでから2年後の1936年にようやくプロトタイプ2台の製作が完了、1937年には計30台のプロトタイプ(W30シリーズ)がダイムラー・ベンツ社で製作された。ナチス親衛隊(SS)隊員から運転免許保有者たちが選抜され、彼らによって過酷なテストドライブを受けることで、プロトタイプの弱点が洗い出され、強化された。

また生産工場の建設計画についても多くがポルシェに委ねられたことから、開発期間にポルシェは2度に渡ってアメリカ合衆国を訪れ、大衆車の廉価な大量生産のノウハウを得るためにフォード・モーターなど大手自動車メーカー各社の工場を、現場の生産体制に至るまで詳細に視察した。この際には自動車量産の始祖とも言えるヘンリー・フォードとも会談している。フォードはドイツでの自動車生産の意図には大いに理解を示した[6]が、ポルシェの示したフォルクスワーゲンの設計コンセプトについては、持ち前の保守性から評価しなかったという[7]

翌年1938年には最終プロトタイプVW38が完成し、後年までよく知られるフォルクスワーゲンのスタイルが決定した。

同年5月には工場の定礎が行われ、その会場でヒトラー立ち会いの下、ポルシェによってプロトタイプのセダンとカブリオレが披露された。上機嫌で賞賛と国民車普及の演説を打ったヒトラーは、その場で生産型の車名を『KdF-Wagen(歓喜力行団の車)』と命名した[8]

こうしてKdFの大量生産準備が進められることになった。KdFの販売にあたっては、国民はクーポン券による積み立てでKdF購入費用を貯蓄し、満額に達した者に車を引き渡すという計画が立てられた。

しかし、ヒトラー自身が1939年に第二次世界大戦を勃発させてしまったため、量産直前まで到達した国民車構想はストップした[9]

この結果、KdF-Wagen 製造工場は軍用仕様のキューベルワーゲンシュビムワーゲンを主に生産するようになった。若干数の KdF-Wagen も軍用車両として用いられた。この工場では戦争捕虜収容所収容者が過酷な労働に従事させられた(現在のフォルクスワーゲン社に、この戦時中の強制労働の直接責任があるわけではないが、同社は歴史担当部門を設け1998年から各種の戦争補償プログラムをおこなっている)。

模倣論争

タトラ模倣説

KdFに関しては、チェコのタトラ社のハンス・レドヴィンカが試作し、1937年から少数を生産した1.7Lリアエンジン車タトラT97との類似が指摘されることがある(さらには同じくタトラが1934年に発表した大型リアエンジン車「T77」、1935年の「T77A」、1936年の「T87」の影響も指摘される)。

カブトムシ型のヤーライ式流線型ボディ、空冷の水平対向もしくはV型エンジンをバックボーンフレームの後部に搭載し、四輪独立懸架とするシャーシ構造、冷却システムなど、確かに類似点は多い。空冷エンジン採用には、空冷モデルを主力としたタトラに対するヒトラーの傾倒があったとも言われる。

実際に戦後タトラ社はフォルクスワーゲン社に訴訟を提起、1961年にVW社は300万ドイツマルクに及ぶ賠償金を支払っている。しかしビートルの原型は1934年NSU試作車(タイプ32)において完成をみており、これ(タトラ社への賠償金支払)は著作権侵害の賠償というよりは、ドイツによるチェコスロバキア併合と、相前後してのT97生産停止命令(わずか500台余りの生産のみで製造停止された。これはフォルクスワーゲンとの類似性・クラス近似が影響したものと言われている)への賠償を肩代わりしたものとみていいだろう。

ちなみにポルシェとレドヴィンカは交遊があり、お互いのアイデアを頻繁に交換しあっていた。二人はいずれも1920年代からバックボーンフレームやスイングアクスル独立懸架、空冷エンジンなどの導入に熱心で、1931年 - 1933年頃にはほとんど並行する形で流線型ボディの空冷式小型リアエンジン試作車を開発していた。またリアエンジン流線型車を構成する個々の技術要素のほとんどは、特に二人が発明したという訳ではなかった(フォルクスワーゲンにおいても、ポルシェ自身が考案した部分は、トーションバーを用いたダブル・トレーリングアームの前輪独立懸架ぐらいである)。類似した原因は、当時のトレンドであった新技術を両者が貪欲に取り入れていた結果で、一方がもう一方を単純に模倣したと言えるものでもない。

ヨーゼフ・ガンツ模倣説[10]

リアエンジン、独立懸架、バックボーンフレームというビートルを特徴付ける機構について第二次世界大戦後にヨーゼフ・ガンツ(Josef Ganz)がビートルは自身の設計の盗作であると主張した。ガンツは戦前「モトールクリティーク(Motor-Kritik)」誌の編集長も務めた技術者であり、1929年のツェンダップ社や1930年のアルディ社(Ardie)、1931年のアドラー社(Adler)の車に同様の機構を提案していた。ガンツの設計で1932年にシュタンダルト社(Standard Fahrzeugfabrik)が開発したズーペリオル(Superior)は1,590ライヒスマルクの国民車と宣伝された。1933年のフランクフルト・モーターショー(Frankfurt Motor Show)でこの車を見たヘルマン・ゲーリングは設計者と契約を結ぼうとした。しかしガンツがハンガリーユダヤ人であることが分かるとゲシュタポは彼を逮捕、1カ月間拘留し以後の著述活動を禁じた。1934年にガンツはスイスに移住した。

ガンツは、自身が設計したアルディ車の設計図を誰かがコピーしてそれをツェンダップ社に渡し、ポルシェ博士はツェンダップ社から入手したレイアウト図を基にビートルを設計したと推論していた。ガンツはポルシェ博士を尊敬しており、アイデア盗用の件はナチスの責任であると考えていた。

敗戦後の復興と飛躍

1945年、ドイツは戦争に敗れ、KdF-Wagen 工場跡は空爆で大きな被害を受けていた。この工場を管理する役目を与えられたイギリス軍将校アイヴァン・ハーストは、「ナチス側が爆破したように見えた」と証言している。

資材のない戦後の混乱期であり、ドイツ国内のさまざまな工場や資材は、進駐してきた米国、フランス、イギリス、ソ連の4国に収奪され、自国に持ち帰られてしまうような状況であった。しかし、当時としては極めて前衛的な設計を備えたフォルクスワーゲンは、幸運にもその標的から免れた。

占領国からの収奪行為に最も積極的であったソビエト連邦は、最新式小型乗用車プラントの収奪対象として、在来型乗用車の延長上にある中庸な設計のオペル・カデットを選択し(それはソ連本国で国産化されて「モスクヴィッチ」となった)、イギリスやアメリカ合衆国の自動車メーカーも概して保守的設計に偏りがちなゆえに、フォルクスワーゲンの先進性を理解しなかった。イギリスのメーカー視察団も、フォード・モーターの新たな盟主となったヘンリー・フォード2世も、フォルクスワーゲンを検分こそしたが、特異な設計の自動車と見なして「無価値」と判断し、設計・設備の収奪はおろか、何らそこから学ぼうともしなかったのである(結果、イギリスとデトロイトのメーカーは、自国も含め、後年の国際的な小型車市場においてその失策の対価を払う羽目になった)。このため1949年までには、フォルクスワーゲン工場が連合国側の接収対象から免れることが確定した。

対して、アイヴァン・ハーストはドイツ人の協力的な態度とフォルクスワーゲン車の内容に将来性を感じ、手段を尽くして工場を修復させ、自動車生産を再開させることをもくろんだ。こうして彼は、残っていたドイツ人労働者らの力でその名の通りの「国民車・フォルクスワーゲン」を、はじめて誕生させたのだった。フォルクスワーゲン車の本格的な量産はこの時から始まったと言える。1945年中に早くも1,785台を生産している。

ハーストは英国軍に対し、ジープに代わる耐候性の高いスタッフカーとしてフォルクスワーゲンを用いることを提案し、1946年には1万台のフォルクスワーゲン・タイプ1が生産された。

1947年には、オランダ向けを第一陣として国外輸出が始まった。最大の市場となったアメリカへの進出は1949年である。またその後、ドイツ系移民が多くフォルクスワーゲンが一定のシェアを持っていたブラジルの現地法人である「フォルクスワーゲン・ド・ブラジル」やメキシコでの生産も開始された。

以後のフォルクスワーゲン・タイプ1の歴史は、破竹の勢いと言うべきものであった。とにかく頑丈で悪路や厳しい気候でも酷使に耐え、材質・工作が優秀で整備性も良く、大人4人を乗せて経済的に高速巡航できるこの車の性能・品質は、1950年代に至ってもなお世界各国の新型小型乗用車に引けを取らないものであった。アウトバーンでの走行を念頭に置いた、100km/h以上で高速道路を連続巡航できる車、というポルシェとヒトラーの進歩的コンセプトは、戦後の先進各国におけるハイウェイ時代到来に、見事に適応したのである。アウトバーン整備とフォルクスワーゲン開発の推進は、常に独裁者としての悪名が先行するヒトラーの施策の中では、戦後これを実効的に継承発展できたことで、後年まで成功と見なされる事績の代表例となった。

輸出市場でも、その性能と共に、進出した各国で緻密に構築された質の高いディーラーサービス網が、ユーザーからの信頼をより一層高めた。1955年には累計生産100万台に到達、さらに工場の増設・新設を繰り返して、1964年には累計生産1,000万台に到達した。

改良は年々為され、エンジンや電装の強化(1960年代中期以降、6V電装を12Vへ変更)、細部の形態変更などが繰り返されている。排気量は当初の1.0Lがすぐ1.1Lへ拡大、のち1954年からは1.2Lとなるが、1960年代に入ると輸出モデルを中心に1.3L、1.5Lへの移行が進み、モデル後期には1.6L型も出現している。

アメリカではセカンドカーとしての需要が高かったが、特に合理性を重んじる知的階層からは「大型車へのアンチテーゼ」として愛用され、一時はデトロイトの大型車と正反対な、反体制の象徴の一つとしても扱われた。理知的なユーモアに溢れる優れた広告戦略も好評を博したが、その広告代理店がドイツ系ユダヤ人ウィリアム・バーンバック率いるDDB(ドイル・ディーン・バーンバック)社であったことは、フォルクスワーゲンの生い立ちからすれば歴史の皮肉とも言える。

日本では老舗輸入車ディーラーヤナセ1952年から取り扱いを開始。「寒冷時に急な往診があっても(暖機運転必須であった当時の水冷エンジン車と違い)速やかにコールドスタートできる」「頑丈なドイツ製品」という実用性を伴ったキャラクターは開業医の間で好まれ、医師が自らハンドルを握る「ドクターズカー」として使われる例が多かった。このため、昭和30年代には「お医者さんの車」として一般大衆にも知られるようになった。フォルクスワーゲンは、戦後のヤナセにおいて1960年代以降アメリカ車に代わり、長く主力商品の一つとなった。

改良と生産終了へ

だが1960年代以降は、設計の古さによるスペース・ユーティリティの悪さや、リアエンジンとスイングアクスル式独立懸架による高速走行時の不安定さ、空冷エンジンの騒音などが問題視されるようになる。しかし、フォルクスワーゲン社は決定的な代替車種開発に失敗し続けて1970年前後は経営困難に苦しみ、1974年に前輪駆動方式の本格的な代替車「フォルクスワーゲン・ゴルフ」を世に出すまで、前時代化したビートルを主力車種としたまま、改良のみでしのぐことになった。

1967年には、電装系がそれまでの6Vから、当時既に一般的であった12Vへ変更された。外観では、フロントライトが直立した形状になった。

翌年の1968年には、北米市場を意識した大幅な変更が行われた。衝突安全性を高める為に前後バンパーが強化され、テールライトも大型化された。この年より、スポルトマチックと呼ばれるセミオートマティックのモデルが追加された。

スポルトマチックと北米向けモデルに関しては、リアがダブルジョイント式ドライブシャフトとなり、高速安定性が向上した。

1970年には、71年モデルとしてポルシェ式のトーションバー式トレーリングアームに代わり、操縦安定性を改善するストラット式サスペンションをフロントに備えた1302系が発表された[11]。サスペンションのみが大幅近代化されながら、外観は在来型ビートルから大きな発展はなかったが、ラゲッジスペース拡大を若干ながら実現している。この系列は1973年には、フロントウインドーのカーブドグラス化、テールライトの更なる大型化などのボディ形状変更で1303系に移行し1975年まで生産された。しかし、これらストラットサスペンション系列と並んで、ポルシェ式サスペンションを持つ在来モデルも継続生産された。

この間、1972年2月17日には、累計生産1500万7034台に到達し、フォード・モデルT(1908 - 1927)の1500万7033台という生産記録を追い抜いた。

ゴルフを始めとする1970年代の前輪駆動車へのシフトで、本国ドイツのヴォルフスブルク工場では1978年を最後に製造が終了した[12]

その後も、長期量産によるコストダウンで需要が高かったメキシコでは生産を継続、ブラジルでも一時生産中止していたビートルを生産再開した時期があった。これらは現地での国民車として広く用いられ、他国のマニアからも「新車のビートル」として並行輸入ルートなどで珍重された。

2003年7月30日[1]、メキシコ工場でタイプ1の最終車両が完成し、総生産台数約2153万を達成して生産終了となった。発表以来65年間に渡る製品寿命を保った四輪乗用車は、歴史上、他に存在しない。

派生車種

ドイツ人はオープンモデルへの志向が強く、タイプ1(ビートル)をベースにした2シーターカブリオレのヘブミューラー・カブリオレが生産されている。生産数が少なく、幻の車とされるロメシュ(ロメチュ)も同類に属する。

さらに、ビートルのコンポーネンツを用いた本格的なスポーツクーペとしてイタリアのギア社のデザインしたボディをドイツのカルマン社で生産した「カルマンギア」(1955年、タイプ3系カルマンギアは1961年)は、洒落たスタイルで人気を博した。

ビートルのリアエンジンシャーシは応用範囲が広く、これを流用ないし強化する形で、広大な荷室を備える先進的ワンボックス車のタイプ2(1950年)や、ノッチバック、ファストバック、ワゴンを擁す幅広ポンツーン・スタイルのタイプ3(1961年)、4ドアのタイプ4(1968年)などがラインアップに加えられてきた。

またVW社外においても、エンジン・シャーシとも改造の余地が広く、しかも廉価で信頼性が高いというメリットを買われ、小メーカーの限定生産車や、アマチュアのハンドメイドカーのベースに好んで用いられた。新品・中古を問わず、シャーシおよびドライブトレーンを流用して別製のボディを載せたカスタムカーや、エンジンのみを流用した各種のスペシャルが、世界各地で多数製作された。それらバリエーションは枚挙に暇のないほど多彩である。

シャーシ

鋼管バックボーンフレームとフロアパンを組み合わせた頑強なプラットフォーム・フレームを備え、Y字型に分かれたシャーシ後部にギアボックスディファレンシャルを兼ねたトランスアクスル、およびエンジンを搭載する。1930年代の自動車としては進んだ設計である。

サスペンションは前後とも、横置きトーションバーにてトレーリングアームが吊られる構造で、フロントはポルシェ流の上下2段式トレーリングアーム、リアはシングルトレーリングアームで吊られたジョイントレス・スイングアクスル構造である。このサスペンションと、車格の割には大径のタイヤによって悪路踏破性能は高かった。

なお、原型のトーションバーサスペンションについては1960年代以降操縦安定性問題が指摘されるようになり、末期には主に対米輸出モデルや派生型の1302・1303系などで、よりモダナイズされ安定性の高いストラット式サスペンションへの変更が行われている。

ブレーキは初期こそメカニカル・ドラムだったが、1950年代前半に油圧化され、さらに末期には前輪をディスクブレーキ化している。

エンジン

エンジンはVW・タイプ1の大きな特徴である。軽量さと簡易性を配慮して設計された4ストローク・強制空冷水平対向4気筒OHVで、軽合金を多用、空冷式のため各シリンダーは独立した構造である。車体の最後部に置かれるRR(リアエンジンリアドライブ)構造を前提に設計され、通常は4速ギアボックスを収めたトランスアクスルと結合されて搭載される。原設計はポルシェ社のフランツ・ライムシュピースが手がけた。

開発過程では水平対向2気筒や、2ストロークエンジンの採用も検討されたが、排気量に応じた効率や、高回転での耐久性などを総合的に判断した結果、水平対向4気筒が採用されたものである。基本構造の完成度が高く、ビートルだけでも当初の1.0Lから最終的に1.6Lに至る排気量拡大などの大改良が幾度となくなされたにも関わらず、基本レイアウトがそのまま踏襲され続けたことは特筆に値する。仮に水平対向2気筒や2ストローク方式であれば、1.6L級までもの排気量拡大は実質不可能であった筈である(市販乗用車でもほとんど他例がない)。

カムシャフトをクランクシャフトより下に配置し、吸排気ともシリンダー下側配置のプッシュロッドによってバルブを駆動する。このため燃焼室自体は吸排気バルブが同方向に揃ったバスタブ型のターンフロー式で、絶対的な燃焼効率は良くないが、生産性を重視してこのレイアウトを採用した。開発・生産着手当初は精度が高すぎるエンジン設計のために、加工・組み立ての信頼性確保に相当な苦労があったというが、生産が軌道に乗ってからはこの高精度設計が功を奏し、優れた性能を得ることができた。

空冷エンジンではあるが、オイルクーラーを装備してオイルも積極的に冷却することで、エンジン全体の冷却効率を高めているのが特徴である。強制空冷用の冷却ファンはクランクシャフト回転の倍速で駆動され、十分な冷却性能を確保した。冷却効率向上のため、各シリンダーはシュラウド(導風板)でカバーされている。

水平対向の強制空冷エンジンゆえに「バタバタ」「バサバサ」などの擬音、もしくは「ミシンの音」と表現される大きな騒音を発したが、その代わり耐久性は抜群で、灼熱・酷寒の気候でもよく酷使に耐えた。また転がり抵抗を小さくする大径タイヤや、トップギアがオーバードライブ側に振られたギア比設定とも相まって、全開状態での連続巡航をも難なくこなした。

ただし耐久性と信頼性の代償として、ビートルのエンジンは、その排気量に対し、ほとんど常に同時代の平均より低出力であった。もっともこれは回転が上がらないためで、明らかに、意図的にそう設計されたものである。倍速回転の冷却ファンが、回転数過大の場合はかえって有効に働かなくなる制約もあり、ある程度回転を抑え気味の設定が必要であった。ハイパワーを狙ったエンジンではないため、多くの場合、ソレックス(ドイツ生産版)のシングルキャブレターを装備するシンプルな仕様が標準だった。

ポルシェは整備性にも重きを置いており、ビートルのエンジンルームはコンパクトだが整備に支障のないように必要十分なゆとりが確保されていた。エンジン交換も比較的容易で、1970年代などに盛んに行われたファン・ミーティングでは「エンジン脱着競争」(ル・マン式スタートの如く、車から離れたスタート地点から二人一組のチームが車に駆け寄り、エンジンを外した後、それを台車に載せてスタート地点に戻り、また車に戻ってエンジンを装着し、エンジン始動の後に車をスタート地点までバックさせてゴール。平均タイムは20分少々)が恒例行事として行われていた。

エンジンの応用

VW空冷エンジンは、廉価で軽く頑丈なため、軽飛行機などのエンジンにも流用された。

VWエンジンを使ったフォーミュラカー、Vee(1.2Lエンジンを使用)・Super Vee(1.6Lエンジンを使用)のシリーズも存在し、同シリーズからはニキ・ラウダF1まで駆け上っている。

ボディ・装備

全鋼製セミ・モノコック構造の流線型で、「カブトムシ型」といわれるヤーライ流線型ボディの典型である。ドイツではまだ木骨ボディの大衆車も多かった1930年代に、プレス鋼板による量産性や耐久性、安全性を考慮していち早く全鋼製ボディを採用したことには先見の明があった。丸みの強いボディは空気抵抗が小さいだけでなく、鋼材の節約や強度確保、それらに伴う軽量化の効果もあった。

なお、ボディ形状は2ドアセダンないしカブリオレのみで、4ドア型は存在しない(にも関わらず、タクシーパトロールカーなど4ドアに適する用途にもしばしば用いられた)。リアシートへのアクセスの都合もあり、フロントシートは左右独立したセパレートタイプである。

デザインは後にポルシェ・356のオリジナルデザインも手がけたポルシェ社のデザイナー、エルヴィン・コメンダによるもので、「ヒトラーのデザイン」という奇妙な説が一部にあるが間違いである[13]。類似した流線型車は1930年代からポルシェ自身によって設計されていたが、コメンダのデザインは独立式フェンダーホイールベース間の側面ステップを残す古典性はあるものの、1930年代後期としては流麗で完成度が高かった。

長い生産期間を通じ、窓形状やフード、フェンダー、バンパーなどの形状変更は枚挙に暇がなく、これによって個体の年代識別も可能であるが、「独立フェンダーとホイールベース間のサイドステップを持つカブトムシ型」という流線型ボディの基本的なデザインモチーフは一貫して踏襲され、世界的に親しまれた。

もっとも、ボンネット内容積・幅員の有効利用が為されていないなど実用面の弱点もあり、1930年代基準のデザインは、1950年代中期時点ですでに「時代遅れ」と評されていたのであるが、大きな変更もなくそのまま生産が続けられたのである。

その全鋼製ボディは、当時の車としては気密性も高く(窓を閉めておけば)「水に浮く車」としても有名だった。ほとんど無改造のビートルがイタリアのメッシーナ海峡を横断したり、フォルクスワーゲン社の実験では、エンジンをかけたままプールに沈めたところ、9分あまりも沈まなかったという。洪水に流されたが無事だった、というエピソードもいくつかある。

スペアタイヤは通常サイズのものがフロントノーズ内に斜めに収納されているが、その空気圧はウインドウウォッシャーの噴射ポンプ代わりにも利用された(もっともタイヤ空気圧が落ちるとスペアタイヤが本来の用を為さなくなる問題もあって、後から他車向けパーツの流用で一般的な電動ポンプ式に改装したユーザーが少なからず存在する)。

快適装備類は大衆車故に時代に応じた最小限ではあったが年々増強されていった。ヒーターは標準では空冷エンジン車で多用されるエンジン冷却風の単純な導入でなく、排気ガスの廃熱を熱交換器で取り入れて車内を暖める方式で、これでは不足な酷寒地では別にガソリン燃焼式の温風ヒーターをオプション搭載することができた。また末期にはエンジンルームの空隙を利用したコンプレッサー装備でクーラーの搭載も可能になっている。

1950年代以降、カーラジオなどのオーディオ類も装備されるようになったが、ラジオに関してはドイツ本国仕様だけでもテレフンケンブラウプンクトなど複数メーカーの製品が採用されており、アメリカ輸出仕様や日本仕様でも各国の放送局・メンテナンス事情に合わせて現地製カーラジオが搭載されるなど、決して一様ではない。

1970年代には、キャル・ルック(California Look)と呼ばれるスタイルのビートルがアメリカ西海岸を中心に生まれた。これは、当時のドラッグレース用のビートルをモチーフにしたものである。フロントの車高を下げ、チューンしたエンジンを搭載。当時の復刻アルミホイールやポルシェのホイール流用など。現在においてもビートルの改造スタイルの主流として多くの愛好者が存在している。

モータースポーツ

ラリー競技

第二次大戦後の復興で、ラリー競技が各地で再開される事となった中でも侮れない存在であった。1953年、1954年、1962年と3度も過酷なサファリラリーを制している。 当時は1.2Lエンジンであったが、1970年台、1303Sとなり1.6Lエンジン、ポルシェ・914の5速ギヤボックスがおごられると、1973年のアクロポリス・ラリーで優勝したジャン=ピエール・ニコラの駆るアルピーヌ・A110トニー・フォールの1303Sが追い回す場面も見受けられ、後にフォールは「登りは非力さを痛感するが、下りはこっちのもの。常にシフトアップが可能なマシンだった」と語っている。[14]

脚注

  1. 1.0 1.1 Volkswagen社、旧型「Beetle」の生産を終了 日経BPネット 2003年8月1日
  2. ヒトラーが同時期にフリッツ・トートを起用して広域整備を計画していた、自動車専用高速道路ライヒスアウトバーン」を念頭に置いた条件である。1930年代中期、この速度を保って巡航できる1.0Lクラスの4座小型乗用車は、世界的に見てもいまだほとんど存在していなかった。
  3. 当時、水冷エンジンは冬期の冷却水凍結によるトラブルや始動困難が多く、寒冷なドイツではその対策が切実な課題であったため。またヒトラーはタトラの小型空冷エンジン車に、その簡易さと耐久性の高さから傾倒していた。
  4. ただし、ヒトラー自身は流線型デザインの理論面を十分に理解していなかった。ヒトラーがポルシェとの会談で自ら描いて提示した「自動車」の側面図が残っているが、前方こそ当時から知られていた通俗的な流線型車の丸みを帯びているものの、後部は四角いノッチバックで、いわゆるヤーライ型流線型車に属するのちのタイプ1とはまったく関連性がない。
  5. しかも、水冷のフロントエンジン車である「P4」は前後とも固定車軸の旧式設計でスタイルも前時代的な箱形であり、無論ヒトラーの要求するような性能水準には達していなかった。ベルリンモーターショーのオペル社ブースでオペルの社長から「我が社のフォルクスワーゲンです!」とこれを紹介されたヒトラーは、社長を冷ややかに無視し、その場を無言で立ち去ったという。
  6. ヘンリー・フォード個人は熱烈な反ユダヤ主義者であり、彼が1910年代に著述した反ユダヤ宣伝の著作は、ヒトラーにも影響を与えたほどであった(ヒトラーはヘンリー・フォードを尊敬していた)。そしてフォード自身、第二次世界大戦開戦以前にはヒトラーのドイツでのユダヤ人弾圧活動に強いシンパシーを抱いていたのである。従ってヒトラーによって派遣されたポルシェにも協力的であった。
  7. T型フォードを開発してからのヘンリー・フォードは、量産V型8気筒エンジンの開発以外では徹底して保守的な設計に偏重した。フォード車の設計は、少なくとも1948年までアメリカの大手自動車メーカーの中では最も旧弊なままであった。
  8. 車名は文字通りの「国民車」である「フォルクスワーゲン」として計画されていたが、ヒトラーは下話もなくいきなり「KdF」と車名を決定してしまったため、公式名称やPR資料等の変更に周囲が奔走する羽目になった。
  9. KdFクーポンは販売促進のため、政府主導によって企業現場などで強制割当も図られた。ところが、戦争とナチス政権崩壊のためクーポンは無価値な紙くずとなり、戦後、クーポン購入者たちの一部がVW社相手に訴訟を起こす事態に陥っている。この訴訟は1960年代初頭まで長引いたが、最終的には原告に対し、VW社が大幅割引価格でタイプ1を販売することで和解が図られた。
  10. ワーゲン・ストーリー J・スロニガー著/高斎正 グランプリ出版 ISBN 4-906189-24-5
  11. サスペンションの設計にはポルシェ社が大きく関わったとされ、その後のポルシェ924系との共通点もみられる。リアサスペンションはスポルトマチック等と同型のダブルジョイント。
  12. ドイツ最終生産期の500台に、ヤナセが専用シートやノベルティグッズを付けグローリービートルと言う名の限定車として用意した。このグローリービートルは、日本に運ばれる途中で全て予約完売したという逸話が残っている。
  13. ヒトラーがかつて画家であり、政治家となってからも時に絵筆を取ったのは事実だが,工業デザイン設計の経験はない。またヒトラーデザイン説の明白な論拠となる資料も残されていない。
  14. 三栄書房「ラリー&クラシックス Vol.4 ラリーモンテカルロ 100年の記憶」内「ラリーモンテカルロ・ヒストリック マシン総覧」より抜粋、参考。

関連項目

コンセプトを同一とする車両

  • タトラ - 同時期に着想・設計されたほぼ同一コンセプトの量産車。T77・T77A・T87・T97が該当。
  • MINI - FFを採用する、本車と並ぶ大衆車の代表的存在。1959年に開発されたが、2000年まで製造が続けられた。
  • スバル 360 - ほぼ同一コンセプトでスタイルも似ているため本車の「ビートル(かぶと虫)」に対して「てんとう虫」と呼ばれた。

外部リンク